フィリピン2023年12月30日 08:11

1978年12月31日、パラワン島Rio Tuba入港。
1979年1月1日0000時、汽笛を鳴らしました。

積荷はニッケル鉱石。当時アジア太平洋のニッケル鉱石産地はニューカレドニアとフィリピン。

コーストガードが船に泊まって警備します。モロ族解放戦線という反政府組織が出没するとか。
在マニラ日本大使館経由で警備を依頼し、金額は知りませんが警備費用を支払うようです。
兵隊にいくらか払うとM16自動小銃を撃たせてくれるとか、残念ながら度胸がありませんでした。

ジャングルに鉱山があるだけの所。誰も同行しないので、1人でマラリア予防薬を飲んで上陸。
お前、船に居たな、と声を掛けてくれた検疫官と親しくなりました。家族を紹介されて、ココナッツミルクをかけたココナッツの実をご馳走になり(ドクターが勧めるのだから、大丈夫だろうな?断るのも悪いし)、現地の人の家を見せて貰い、お土産にバナナを貰い、帰りはニッケル鉱石を運ぶダンプに便乗させて貰う手配まで。
ドクターは普段マニラにいて、リオツバに船が入るとき出張してきて検疫手続きをするそうで、マニラにもリオツバにも奥さんと子どもが居るとのこと。いろいろありますね。

同じ会社の新造船、洋光丸が運んでニッケル鉱山に預けて置いたササニシキ、これがうまかった。新潟育ちの私は米をうまいと思ったことは無く、この時初めてうまい米があるのだと知りました。(インドの米と比較して)乗組員全員、大喜び。実はフィリピンは米の輸入は禁止されているそうですが、鉱山とは長い付き合いで、特例です。

1979年1月7日Rio Tuba出港。
1月19日八戸入港。

私のデビュー船、新陽丸による航海が終わりました。
7カ国、12港に入港

乗船期間、9カ月17日

航海日数、133日

推計航海距離、44,688マイル(14ノット計算)


富山丸2023年12月30日 13:10

FUZAN-MARU(富山丸)

材木船から自動車船に改造

9,079.60 G/T

13,468.40 D/W

7,200 HP

145.05m L OA


G/Tはグロストン、総トン数、船の容積100立方フィートを1トンとして表した。帆船時代、ウィスキーやワインの樽1個が100立方フィート、これが何個詰めるかで船の大きさを表したとか。
D/W、デッドウェイト、載貨重量トン数、再掲ですが船に積載できる貨物、燃料、水などの合計トン数。
他にも純トン数、排水トン数、パナマ運河トン数などあります。
HPはHorsepower、メインエンジンの馬力、後にKW表示となりました。
LOAはLength Over All、船の全長。

本船は北米材を運ぶ材木船として建造されたため、冷房設備がありませんでした。
後に自動車運搬の好況により、自動車専用船ではありませんが、カーデッキをもつ兼用船に改造されました。

1979年8月16日、小樽で乗船。
小樽と釧路でペレットという飼料を揚げました。
79年9月2日釧路出港。
9月13日アメリカ、ワシントン州Port Angelesにバンカーのため入港、14日出港。
同日カナダVancouver入港、ペレット積み、スタンレーパークを散歩。18日出港。
19日カナダPrince Rupert入港、ペレット積み、20日出港。
キリスト教関連でプリンスルパートに居た日本人青年が、作業をするので内地まで無料で便乗したいと訪ねてきましたが、そう簡単に雇うわけにも、船客として乗せるわけにも行かず。

新陽丸でバンクーバーに入港したとき、書き漏らしましたが日本丸と海王丸が入港していて、見学させて貰おうとしたら、今日はやっていないと舷門当直に言われました。でもデッキでは多分現地バンクーバーの家族が写真を撮っていました。夕方だったから、もう見学終了だったのかも。