戦争 ― 2024年03月06日 08:18
2019年4月
2018年に亡くなった母の妹二人が、父の見舞いに来てくれたついでに実家を片付けてくれて、私の母子手帳や父の兄の戦友会名簿などが出てきました。
子供の頃、父から聞いた話:
『兄貴(私の伯父)は零戦に護衛させる急降下爆撃機に乗っていた』
『フィリピンで飛行機が無くなって、戦争が終わる少し前に内地に飛行機を取りに戻ったが、内地にも無くて終戦になった。もし飛行機があれば特攻にやらされていただろうから、恐かった、と言っていた』
『飛行機の翼は電柱をへし折るほど強い』
『ジャワ島はどこの家にもピアノがあるほど裕福だった』(当然ながら、植民したオランダ系白人の家でしょう)
『いつまでも、戦友会に行ったり人のことを「貴様」と呼んだり、軍隊から抜け出せないばかな男だった』という辛辣なことも。
名簿から、伯父は陸軍飛行第七五戦隊第三中隊に所属していたことが分かりました。
ググってみると、七五戦隊の飛行機は九九式双発軽爆撃機。
零戦は海軍の戦闘機。陸軍と海軍はあんまり仲が良くなかったようなイメージあります。
しかしネットは便利、を通り越して、驚異、『九九式双軽空戦記』という文庫本の存在を知りました。
75戦隊がオーストラリアの飛行場基地を爆撃するとき、海軍が協力してゼロ戦が護衛したことの記述あり。伯父もその爆撃に参加したのか?
でも、「急降下爆撃機」はググっても出てきません。ところが、丸メカニックという雑誌で1979年5月号に九九式双軽爆撃機の特集があって、これが1,500円でアマゾンで買えました。
水平爆撃より精度の高い急降下爆撃が必要となり、60度ダイブが出来るようにダイブブレーキを装備した『日本陸軍唯一の急降下爆撃機』との記事。
父の言っていたことは、まぁ、合っていたようです。
空戦記によれば、七五戦隊からも戦隊長が選んで特攻を出していました。
陸軍の人事として、飛行戦隊の戦隊長は必ずしも操縦が出来る必要が無くて、だから操縦できない戦隊長は絶対に特攻をやることは無いのです。泣ける話です。
設計上、標準で300キロ、特別で400キロしか爆弾を積めない九九式双軽に、800キロ爆弾を積んで特攻をやったそうです。
機体を軽くする為、3丁の旋回機銃を全部取り外して武装無し。しかも戦闘機の護衛無し。サファリパークを車に乗らずに歩くようなもの?
九九双軽は1機あたり4人の空中勤務者(陸軍の呼び方)がいますが、機銃を撃つ2人と無線担当を合わせて3人省いて更に軽くなります。操縦手1人で特攻。
(通常爆撃では、無線は離陸したら封止らしく、無線手も3丁目の機銃を撃つのでしょう)
1機15万円の飛行機で1艦2,000万円の敵戦艦をやれば、充分お釣りが来るという計算があったと。人の命は無料、泣ける話です。
2019年5月
父が亡くなり、四十九日に来てくれた、満州に住んでいた叔母から聞いたのは、戦争が終わって内地に帰るとき、満人からもソ連兵からもひどいことをされたことは無かったが、汽車で移動する途中野宿したことがあり、一緒に帰国する体を売っていた女達が『私たちが念のために外側に寝るから、あなたがたは内側に寝なさい、何かあれば私たちがあなた方を守るから、ともかく協力して一緒に内地に帰りましょう』と言ったと。泣ける話です。
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