戦争 ― 2024年03月17日 08:07
2020年8月15日
8月15日といえば終戦記念日、とは言っても今年は2020年、何だそれ?と言う人も多いことでしょう。
昔、日本は中国や欧米と戦争をしました。
『全て日本が悪くて何十年経っても謝罪し続けなければならない』という自虐史観もあれば、
『有色人種が白人と戦争をした果実としてアジアの多くの殖民地は欧米宗主国から独立することが出来た聖戦だった』という省察のない肯定派もいます。
今でも、せっせと内戦に勤しんでいる国もあれば、虎視眈々と隙があれば他国に攻め込もうと狙っている国もあります。
内戦はともかく、外国と戦争することは各国の権利であって、やってはいけないこと、悪いことではない、話し合いで解決が出来なかったときの外交の最終手段として戦争は容認されている、その証拠に戦争にも国際法というルールがある、というのが国際社会の常識。なんとも滑稽で凄惨なはなしです。
ここに相反する人類の性癖を示した数冊の本がありまして、
一方は生体解剖や人体実験を、
もう一方は敵兵を銃撃する困難さを説明しています。
解剖というのは医学の勉強や死因の特定などのために死体に対して行うものであって、生体に対しては治療のための手術はあっても解剖はあり得ないことです。ところが、健康な人間を銃で撃って弾を摘出する練習をしたとか、麻酔を使わずに開腹して内臓を取り出したとか、何でもやっていました。他にも、胸が悪くなるような細菌の感染や凍傷などの人体実験で、中国人やロシア人が犠牲になりました。
被害者をマルタと呼び、日本の敗戦が決定的となりマルタを処分するとき、青酸ガスを使ったり、あるいは二人を向かい合わせて首にロープを巻き、その中央に棒を差し込んでふたりでねじる、傍らで日本兵が銃をかまえている、2-3分でふたりは自らの首を自らの手で締め上げて死んでいった、マルタ自身に溝を掘らせた、マルタは何のためか知っていた、生気の無いドロンとした目でシャベルや鍬を握っていた、という記述もあります。
その対極に、実は人間は人間をそう簡単に殺せない、という本も。
南北戦争、ゲティスバーグの戦いのあと27,575挺のマスケット銃が戦場から回収された、
このうち90パーセント近くは装填されたまま、
そのうち12,000挺には複数の弾丸が装填、
そのうち6,000挺からは3発から10発も装填されていた、13発というものもあった、
単発、元込め式で敵と向かい合って、装填したら直ぐに発砲が当然と考えられる。
肩を並べ横並びで、発砲しないことを隣の戦友に誤魔化すには、装填しても引き金をひかず、装填、撃ったふり、装填を繰り返すしか無かった。
第2次大戦中の米軍、100人中15人から20人しか自分の武器を使っていなかった、戦闘が1日中続こうが、2,3日続こうが一定だった。
発砲しない兵士隊は逃げも隠れもしないで、戦友の救出、武器弾薬を運ぶ、伝令を務めるという発砲するより危険な仕事を進んで行っていた。
日本軍の捨て身の集団突撃に繰り返し直面しても、発砲しなかった。人を殺すことに強烈な抵抗感があるから。
20世紀の戦争における死亡原因は、見える距離の敵を狙って撃つ銃撃(個人装備の小銃)よりも、見えないところにいる敵に向かって撃つ砲撃(大砲)によるものがずっと多い、と。
当然ながら、日本人が残虐でアメリカ人が人道的、ということを言っているのではなく、たまたまこれらの本を対比しただけで、
私は、日本家屋は爆弾で爆破するより焼夷弾で燃やした方がより被害が大きいので、軍事目標に限らず無差別に焼夷弾を円状に投下して一般市民を逃げられないようにしてから、円の中心に更に焼夷弾を投下して効率的な大量虐殺をした爆撃機がどこの国のものかも、原爆を二発も投下する命令を発した大統領の国籍も知っています。
要するに、ひとがひとにひとを殺せと命令することや、大砲や空爆のように見えないひとを殺す事は存外に容易でも、
目に見えるひとを、例えやらなければやられるかも知れない敵でも、直接的に殺す事は非常な困難であるというところに、
人類にはまだ救いがあるのかなぁー?という淡い願い、ささやかな期待といったところです。
同時に、自分は疑いも無く正しいと信じ込んで、自分の考えと違う他人を攻撃する自粛警察なんてものが出てくるようでは、外交手段から戦争を除くほど人類の理性が成熟するのは遠い未来のようです。
戦争 ― 2024年03月06日 08:18
2019年4月
2018年に亡くなった母の妹二人が、父の見舞いに来てくれたついでに実家を片付けてくれて、私の母子手帳や父の兄の戦友会名簿などが出てきました。
子供の頃、父から聞いた話:
『兄貴(私の伯父)は零戦に護衛させる急降下爆撃機に乗っていた』
『フィリピンで飛行機が無くなって、戦争が終わる少し前に内地に飛行機を取りに戻ったが、内地にも無くて終戦になった。もし飛行機があれば特攻にやらされていただろうから、恐かった、と言っていた』
『飛行機の翼は電柱をへし折るほど強い』
『ジャワ島はどこの家にもピアノがあるほど裕福だった』(当然ながら、植民したオランダ系白人の家でしょう)
『いつまでも、戦友会に行ったり人のことを「貴様」と呼んだり、軍隊から抜け出せないばかな男だった』という辛辣なことも。
名簿から、伯父は陸軍飛行第七五戦隊第三中隊に所属していたことが分かりました。
ググってみると、七五戦隊の飛行機は九九式双発軽爆撃機。
零戦は海軍の戦闘機。陸軍と海軍はあんまり仲が良くなかったようなイメージあります。
しかしネットは便利、を通り越して、驚異、『九九式双軽空戦記』という文庫本の存在を知りました。
75戦隊がオーストラリアの飛行場基地を爆撃するとき、海軍が協力してゼロ戦が護衛したことの記述あり。伯父もその爆撃に参加したのか?
でも、「急降下爆撃機」はググっても出てきません。ところが、丸メカニックという雑誌で1979年5月号に九九式双軽爆撃機の特集があって、これが1,500円でアマゾンで買えました。
水平爆撃より精度の高い急降下爆撃が必要となり、60度ダイブが出来るようにダイブブレーキを装備した『日本陸軍唯一の急降下爆撃機』との記事。
父の言っていたことは、まぁ、合っていたようです。
空戦記によれば、七五戦隊からも戦隊長が選んで特攻を出していました。
陸軍の人事として、飛行戦隊の戦隊長は必ずしも操縦が出来る必要が無くて、だから操縦できない戦隊長は絶対に特攻をやることは無いのです。泣ける話です。
設計上、標準で300キロ、特別で400キロしか爆弾を積めない九九式双軽に、800キロ爆弾を積んで特攻をやったそうです。
機体を軽くする為、3丁の旋回機銃を全部取り外して武装無し。しかも戦闘機の護衛無し。サファリパークを車に乗らずに歩くようなもの?
九九双軽は1機あたり4人の空中勤務者(陸軍の呼び方)がいますが、機銃を撃つ2人と無線担当を合わせて3人省いて更に軽くなります。操縦手1人で特攻。
(通常爆撃では、無線は離陸したら封止らしく、無線手も3丁目の機銃を撃つのでしょう)
1機15万円の飛行機で1艦2,000万円の敵戦艦をやれば、充分お釣りが来るという計算があったと。人の命は無料、泣ける話です。
2019年5月
父が亡くなり、四十九日に来てくれた、満州に住んでいた叔母から聞いたのは、戦争が終わって内地に帰るとき、満人からもソ連兵からもひどいことをされたことは無かったが、汽車で移動する途中野宿したことがあり、一緒に帰国する体を売っていた女達が『私たちが念のために外側に寝るから、あなたがたは内側に寝なさい、何かあれば私たちがあなた方を守るから、ともかく協力して一緒に内地に帰りましょう』と言ったと。泣ける話です。
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